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2010年3月22日 (月)

価値基準の創造

今の日本はデフレであるといわれている。
政府が言っているんだからそうなのであろうと単純に思う。そしてその中でデフレの代名詞的ないわれ方をしているファストファッションではあるが、私は全然違う見方をしている。

もちろんこれはあくまで私見であり、それについて賛否が分かれるとは思うが、ファストファッションの代表的な企業はリーマンショック以前から存在し、独自の戦略によって成長をして来たものであり、たまたま今の「デフレ」という経済状況によってより世間の注目度が増しただけのことであって、デフレを増長しているなどの意見はまったくのナンセンスだ。

それとは別にこれも私見ではあるが、今のデフレの中での消費の仕方は、逆に消費する対象をキチンと見極めて選別しているように思える。食品にしてもそうだ。今のスーパーの食料品売場には細部にわたって明確な産地、品質表示があり、デフレといえども消費者はきちんと見極めて買っている。もちろん以前起こった産地偽装や冷凍餃子事件などが発端となったことは確かだが、今の消費者は、「味+安全性+価格」という各自のしっかりした価値基準をもって消費するようになって来ている。むやみに国産尊重型のような買い方からそれぞれの消費価値基準をもって意思決定する方向へと進化してきているというのは大手スーパーの食品統括マネージャーの話だ。

先日、染色家である仁平幸春氏の工房にお邪魔させて頂き、その作品や仁平氏のモノ作りについてのお話を伺って来た。仁平氏は図案から各染色工程、蒸しから水元まですべての工程を自身で行っている今では数少ない染色家だ。もちろんそれに使用する染料もすべて天然染料であり、調達から配合までもすべて仁平氏の手によって行われる。

勘違いして欲しくないのは京友禅などの分業制によるものを否定していることではない。分業制のものは各工程の熟練した職人の卓越した技術力が集結して作られた逸品であり、それぞれを比較するものではない。


仁平氏の作品は全ての工程において自身で手掛けなければ生まれないものである。ではどういうものなのか?と聞かれると捉え方は見る人によって違ってくるので「こういうものだ!」などとはとても言えない。ただ1つ感じたことは「素直に見ることでしか良さを感じられない」ものではないかと私自身は感じている。

私の印象は、彼の作品は「有形の無」という矛盾した表現が自分自身ではしっくりくる。「有形」とは形あるものという意味でもあるが、様々な作為があるということでもある。その一方でここでいう「無」とは特定できない、理由付け出来ないという解釈が一番近いかもしれない。
作者としての構図という形やその表現にある作為は確実に存在するはずなのに、見る側はそれを理由付けできない或は見つけ出すことが出来ないのに何かを感じてしまうのである。

だから仁平氏の作品は草木染めがどうとか、技法がどうとかいう見方ではその素晴らしさは感じられないはずだ。

その仁平氏との沢山の話の中で、着物を売る現場ではいい意味でも悪い意味でも「わかり易さ」を求められるという内容で熱い議論となった。消費者は自分がどんな着物を選んでいいのかわからない。もっと端的に言えば、着物は欲しいのだけれども何を買っていいのかわからない。というのが圧倒的である。ましてや絹物であればそれ相応の値段であるため余計に簡単には考えられない。
だから着物は相談出来る販売員がいないと売れない。

余談だが、ユニクロが浴衣を低価格で出して浴衣市場を持っていかれたと誰もが勘違いしているがそうではない。ユニクロの浴衣売上点数は約10万点で浴衣売上金額はたったの5億円である。そしてユニクロの国内店舗数は770店であるから1店舗当り売上点数は130点となる。ちなみに私がいた大手チェーンでは店舗数は130店舗とユニクロの17%しかないにも関わらず売上は約3万4000点。1店当りは260点とユニクロの倍だ。売上効率は圧倒的に呉服店の方がいい。その要因はゆかたを買うために相談出来る専門の販売員がいるからだ。


では話を戻すと、お客様が何を選んでいいかわからないので、商品をわかり易くする必要がある。そしてその価格である理由、いわゆる付加価値をつけることになる。それが「技法のすごさ」であったり、「有名作家」であったり、「希少性」である。そうやって価値基準を設けないと消費者に勧める根拠が無くなるからだ。もちろんそれが虚偽でなければ、商品価値としての判断基準の1つになることは確かであるが、本来はそれは結果論であるのだ。

「試着をしてみて色柄がすごく気に入った。少々値は張るが、それはこの色柄を出すために大変な技術を要するためである」という順番で消費者が理解するならいいのだが、現状は全くその逆の順番である。だから消費者の共感を得られないのである。

加賀友禅の初代由水十久は木村雨山に続き、人間国宝の打診があったそうだ。しかし由水十久は「生涯無銘でありたい」とその打診を断った。何故なら「人間国宝」という称号だけで自分の作品価値を決められることを嫌ったからだ。
もちろん個人や企業が受ける賞等の評価はその努力が認められたものであり、結果的にそれが信用になることはとても良いことであるが、それが全てではない。

消費者が選択する価値基準はまずそれが好きかどうかから始まることであって賞をもらっているから、技法がすごいから、有名作家が作ったから欲しくなる訳では必ずしもない。それを小売に携わる人達は今一度見直して欲しい。
いわゆる「権威型価値の押しつけ」になるような商品訴求はかえって消費者との温度差を大きくするだけだということに気付くべきだと思う。

そこで今デフレ経済といわれている中で、着物の消費も消費者がキチンと自身の価値観で選択する傾向になってきているのではないかと感じる。古着等のリサイクル着物がいい例だ。もちろん安心して購入出来る価格であるということも大きな理由の1つだが、その選び方を見ていると、自分が好きなもの、着てみたいものという純粋な価値基準で商品選択している。そこには有名作家や技法や希少価値といった価値基準は存在しない。どれとどれを合わせたら自分のお気に入りのスタイルになるかを重要視している。ファッションとしての着物選びの本来の姿だ。

もちろん古着だけではなく、手が届く範囲の綿着物やウールやポリエステル着物などもそのようにして選ばれている。そうやって呉服屋自体が間口を広げてあげるだけで、消費者自身が少しのアドバイスで自分好みを選ぶことができる。
絹物になればもうすこし販売員のアドバイスが必要になるが、その内容もまずはそのもの自体を好きになってもらうための商品提案や説明であれば、お客様は楽しいしわかり易い。楽しくてわかり易ければ購買意欲も向上する。できればそうであって欲しいと感じる。


私は販売を指導する時によく恋愛に例える。
お客様が買う大きな理由は、まず純粋にそのきものが好きになったからである。恋愛も同じ。まず純粋に相手を好きになったからである。そして好きになる理由はないといって良い。あったとしてもすべて後付けだ。まれにお金持ちだからとかいう理由がある場合もあるが、ほとんどが純粋な感情からくるものだ。
だからお客様にやれ作家ものだ、どこどこのメーカーの物だなどから入る販売はナンセンスなのである。そんな理由で好きにはならないからである。

このデフレによって、逆にお客様自身の着物に対する価値基準が創造されるなら、呉服店の提案とそれが相まって素晴らしい共感販売が生まれることを心から期待したい。

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ファッション・アクセサリ」カテゴリの記事

コメント

「私を綺麗にしてよ」それが着物選びの変わらない要望です。結果、幾らで達成できますか?という相談が商談ですね。

投稿: kinutaya | 2010年3月22日 (月) 09時24分

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