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2018年1月

2018年1月15日 (月)

新たな、そして勇気ある破壊と創造の必要性

1月8日のはれのひ事件は社会に大きなインパクトを与えてしまった。絶対にあってはいけない、してはいけないことであり、卑劣としか言いようのない事件だ。当たり前であるがこういうことが起きればそれに関わる業界、業者に対する世論の印象や見る目が正視しづらくなることも致し方ないことは理解せざるを得ない。

私たち呉服業界は過去に数回の危機にあっている。1度目は社会情勢、2度目は経済情勢、そして今回危機になるかもしれない信用問題と法的要因である。

第1の危機は昭和15年のことである。

それまでの日中戦争が長期化することによって日本国内の物資が不足する一方で、戦争好景気という決して好ましくない景気が軍需成金を生み、高級品が好調な売れ行きを示した。その結果一般庶民の反感が高まりそれを抑えるために「奢侈品等製造販売規則」が生まれた。江戸時代中期頃に幕府が制定した「奢侈禁止令」と同じことが太平洋戦争直前に施行されたことは今となってはご存知の方は極端に少ないだろう。昭和15年7月7日に施行されたことからこれを「7.7禁令」と当時呼ばれていた。

当然のことながら絹織物や染物自体も制限されたことで呉服産業は大きな危機を迎えることになり、翌年第二次世界大戦が勃発したため、この法律は終戦の昭和20年まで続いた。

終戦後この7.7禁令は解除されたものの、当時はアメリカの占領下であったため、占領軍からの食料等の物資援助の見返りのための輸出に使用するため生糸と絹織物の自由な生産は制限されたのである。また戦時中は織機も鉄製であったために国への供出を強制されていたため、各産地においては一部木製織機を使用していた産地以外は生産再開までに長い時間を要した。

特に丹後産地、小松、福井産地などの生地等の絹織物産地は戦時下金属供出によって約6割強の織機を損出していたために昭和30年代になってからの本格的な生産となっている。

そんな中、昭和21年に行われた現在の成人式の前身である青年祭が実施され、それがきっかけで翌々年の昭和23年に成人の日の祝日制定となった。おそらく当時の呉服業界はその成人の日に未婚女性の正装である中振袖を何とか祝いの日の晴れ着として着てもらう事は出来ないだろうかと考え始めていたかもしれない。だがその時はまだ絹織物の生産制限やそれ以上に各産地がまともに生産できない状況であったため叶わぬ夢であったが、復興の機会を探っていたに違いないと感じる。

それが昭和30年代に入って生地生産が軌道に乗り始め、京都の染色業も活気付き、一般の着物同様振袖も数多く生産された事で、成人の日に振袖を着る人が徐々に増え始めていったと推測される。

成人式に振袖着用を決定づけたのは十日町産地の染物生産への大転換だと感じる。それまでは越後上布、小千谷縮などで知られるように麻織物を中心とした産地であったが江戸後期に西陣の職工であった宮本茂十郎が十日町に訪れ、絹縮や米沢織が考案した透綾を伝え、十日町は絹織物産地へと変換したと言われている。

そこから更に時代は進み昭和39年の東京オリンピックでの女性プレゼンターの振袖姿が話題になり、また第一次ベビーブームが昭和40年代に成人を迎えるというマーケット戦略からそれまで京都の独壇場であった友禅をはじめとした染物の生産に着手するという英断とも言える大転換を図った。それも京都のものづくりは分業であり、友禅をはじめとした染物は当時も現在以上に高価であったが、十日町の生産体制の特徴である「一貫生産」を染色に取り入れる事でコストダウンを図れ、購買客層の拡大が図れるという明確な戦略があった。もちろん一朝一夕で作れるはずもなく、数年の時間を要したが努力と熱意で現在のような染め、織共に着物業界にとって重要な一大生産地としての地位を確立したのである。

それによって一気に成人式に振袖という慣習が根付いたと言えるのではないだろうか。

こういった流れで戦後壊滅的になっていた呉服業界を情熱と希望を持った方々のおかげで完全に復興することができたのである。

第2の危機は1973年と79年(昭和48年と54年)に起こったオイルショックである。

私もこの時にうる覚えであるが、世間が大パニックになったことを覚えている。第四次中東戦争が引き金となってアラブ石油輸出国機構が段階的な生産削減を決定し、ニュースで石油価格が7割もアップすると噂されていた。日本も消費者物価指数が上昇し公定歩合の引き上げによる高度成長期後初めてマイナス成長率となったことでいわゆるトイレットペーパー騒動などが起きた事は記憶されている方もいらっしゃるだろう。ただこの時は日銀の判断ミスで起こった成長率の低下と言われており、ある意味経済的な風評被害のような状況であったようだ。

当然絹織物についても生糸相場の暴騰、物価高による売上低下などが起こりどちらかというと産地に大きな打撃があったようである。この時も全国の産地が「危機突破大会」と称して集まり、互いに情報交換し、助け合いながら危機打開のために取り組んだと聞いている。

結果的に救世主となったのはNHKの朝の連続テレビ小説「鳩子の海」が大ヒットとなり、産地問屋の奥順がロケ地に使われたことから、結城紬をはじめとした紬が一大ブームとなり第2の危機の打開に一躍買ったと言われている。

何れにしても産地の人々の危機に対する真剣な取り組みがまたしても危機を乗り越えることができた原動力となったのは間違いない。

そして今、売り方や経営姿勢などを問われる信用不信による第3の危機が訪れている。第1、第2の危機とは性質が異なる事は理解しているが、これに関しては社会変化や価値観の変化が以前では考えられないようなスピードとなっているため、変化への対応が遅れてきた業界は本当の意味での大改革、いや表現的には大改善をしなければ存続は難しいと考えて良いだろう。


しかしながら何もしてこなかったわけではない。ここ10年強で次世代の業界従事者が様々なチャレンジをしてきている。きものやまとの矢嶋孝敏会長が1988年にきもの21世紀構想を掲げ、浴衣の大パラダイム転換と言われるエイトカラーゆかたで若者のゆかた着用のキッカケを作り、銀座もとじの泉二弘明社長が男きものに対する価値観を変え、森田空美氏がシンプルモダンという美しい着物スタイルを確立した。

また東京山喜の中村社長が問屋業からリサイクル着物の大転換をし、着物への入口を大きく広げ、池田重子氏のコレクションとして伊勢丹新宿店のギャラリーで初めて行われた「日本のおしゃれ展」は着物のファッション化を大きく顕在化させるキッカケになり、アンティーク着物という分野を作った。またそれによって長羽織という明治から昭和初期に流行したスタイルが確立し、それは現在も継続しており、羽尺というコート専用の規格の長さの反物が市場から実質上消えることになった。

またより着物ファンを増やしたのがエッセイストのきくちいま氏であり、誰でも着物を身近に楽しめることを自身の生活と着物観をイラストや本として広め、普段着のカリスマとも呼ばれるようになった。また京都の呉服商である赤木商店の赤木南洋氏が誰もが気軽に着物を着て楽しむイベントであるキモノdeジャックを有志と始め、着る楽しさを共有する場を作った。今ではそのイベントは世界に広がっている。それと同時期に三河の小さな呉服店の店主であるあづまや呉服店の柴川義英氏はその普段着着物の楽しさをUstreamやyoutubeライブ、ニコ生動画などのライブメディアで発信し続け、普段着という言葉を本当の意味で確立させた。

また伝統工芸技術として埋もれていた有松鳴海絞の技術の1つであった雪花絞を藤井絞の藤井浩一社長は自社開発の綿麻生地に施し、着物としても着れる上質な浴衣としてリブランディングし、自社のブランディングとともに夏の着物の楽しみ方をより広げることで着物は1年中楽しめるファッションの選択肢の1つとして少しずつ認知し始めていっている。そして2016年2月には京都の若手の作り手の組織であるきものアルチザン京都が世界で初めて世界の四大ファッションショーであるニューヨークコレクションに本格的な着物を出展して話題となった。

そんな中での水を差すような、そして消費者の信用を失墜させるような事件と今国会で提出されることがいよいよ決定した成人年齢の引き下げという第3の危機が訪れようとしている。

私は7年前に業界で初めて全国の産地から小売店、問屋、メーカー、生産地、悉皆業、着付け師、和裁業など業界分け隔てなく情報交換し、交流の場を作るべく次世代が主体の「呉服業界若手経営者の会」を開いた。今までに全9回開催しているが、初めは呉服業界という村社会で訳の分からない馬の骨が出しゃばり目立ったことをしたことで様々なところで沢山叩かれた。しかしながら第1回目に私が参加者の前で申し上げた理想は今でも思い続けている。それは

「株式会社呉服業界の精神を持とうではないか!」という考え方である。

小売店は営業部、問屋は営業企画部、メーカーは商品企画部、産地は商品生産部、悉皆はメンテナンス部、和裁はオーダー部、着付け師やスタイリストは普及促進部とそれぞれが一体となって、そして協業と競争をバランスよく連動し合う業界であるが1つの連携組織でもあると唱えた。その意識は今でも変わっていないし、そうすることで三方よしの論理も、そして何より着物ユーザーが着物を人生の中のファッションという部分での選択肢に入れてもらえるようになるのではないかという希望と理想を参加者と共有した。それはいまの様々な繋がりの中で一つも変わっていない。もちろん今年何処かのタイミングで第10回目を開かねばならないと思っている。

これまで上記で述べたような未曾有の危機を私たちの大先輩たちは時に立場を超えて団結し、時にはそれぞれの自助努力で乗り越えてきた。

私たちの世代に新たな危機が訪れているが、今こそ本当の意味で「新たなる、そして勇気ある破壊と創造」が必要なのではないかと強く思っている。

そして必ず呉服業界が今と次世代の力によって新たな時代が築けると確信している。

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